― 絶望のどん底に
久留米大学病院救命救急センターへ搬送された私は、そのまま入院となった。
救命救急センターは、想像を超える過酷な場所だった。
救急車がひっきりなしに到着する。
ドクターヘリも一日に何度も飛来し、重篤な患者が次々と運び込まれてくる。
そのたびに院内アナウンスが流れ、医師や看護師たちが一斉に動き出す。
そこでは、生きるか死ぬかの境界線にいる人たちに対して、必死の救命処置が行われていた。
後になって知ったことだが、私自身もその一人だった。
家族や親、親戚が呼ばれ、
「覚悟しておいてください。五分五分です」
と告げられていたという。
当時の救命救急センターは、最大でも二週間の入院が原則だった。
私はその期限いっぱい、二週間をそこで過ごすことになった。
点滴は常に五、六本同時に繋がれていた。
身体は思うように動かず、ただ時間だけが過ぎていった。
長男は十四歳、長女は十二歳、次女は九歳。
まだ子どもたちは幼く、これからという時期だった。
もし自分に何かあったら――。
そんな思いが頭をよぎるたびに、不安と恐怖が押し寄せてきた。
二週間後、ようやく一般病棟へ移ることができた。
そこからさらに一か月半の入院生活が続いた。
この入院中は手術をせずに済んだものの、病気が完全に治ったわけではなかった。
その後、一年十か月後に緊急手術を受けることになる。
さらに約二年後には、二度目の手術も経験することになる。
この約二か月の入院と、その後の長い療養生活。
退院してからも、およそ七年間にわたり、壮絶な病気との闘いが続いた。
その中で、何よりも強く感じたのは、家族のありがたさだった。
支えてくれる存在がいることの大きさを、これほど実感したことはなかった。
八月初旬に退院し、その後一か月間は自宅療養となった。
体力は落ち、以前のようには動けない。
それでも、早く仕事に戻りたいという思いが強かった。
九月から職場復帰したいと人事に伝えた。
しかし返ってきた答えは、予想外のものだった。
「十月の銀行合併まであと一か月で忙しい。それどころではない。復帰は十月にしてくれ」
その言葉を聞いたとき、何とも言えない虚無感に襲われた。
自分は必要とされていないのではないか。
そんな思いが胸をよぎった。
それまでの私は、「自分がいなければ仕事が回らない」とどこかで思っていた。
しかし現実は違った。
私がいなくても、組織は動いていた。
銀行も、支店も、日々の業務を続けていた。
その事実は悔しくもあり、同時に大きな気づきでもあった。
会社や組織は、本来、誰か一人に依存するものではない。
この経験は、後に事業承継の仕事に携わる中での原点となっていく。
「社長がいなくても回る会社をつくることが大切です」
そう伝えるようになった背景には、この時の体験がある。
人はいつまでも元気ではいられない。
人生には限りがある。
その当たり前のことを、私はこの経験を通じて痛感した。
それまでの私は、仕事中心の人生だった。
忙しいことが当たり前で、先のことはいつか考えればいいと思っていた。
しかし病気は、その考えを根底から変えた。
「今できることは、今やらなければならない」
そう強く思うようになった。
多くの経営者は、
「まだ元気だから」
「もう少し先でいい」
と言われる。
その気持ちはよく分かる。
かつての私も同じだった。
しかし人生は、自分の思い通りには進まない。
父との別れも突然だった。
私の病気も突然だった。
だからこそ、経営者にはいつもお伝えしている。
事業承継に「早すぎる」はない。
準備できる時に準備することが何よりも大切なのだと。
私はこの病気によって、多くのものを失った。
しかし同時に、多くのことを学んだ。
そして、この経験が後の人生を大きく変えることになる。
退院から2か月後、私は思いもよらない辞令を受けることになるのである。
それは、銀行員人生を大きく変える転機だった。
次回予告
第13回 銀行合併、そして本部へ
福岡シティ銀行と西日本銀行の合併。
その時、私に下された辞令は、本部・プライベートバンキング室への異動だった。
事業承継との本格的な出会いが始まる。
第12回 生かされた命
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