「会社を守るために、会社を売る」――老舗スーパー3代目社長の先見性
今回ご紹介するのは、地元で15店舗を展開していた老舗スーパーのT社長である。
当時、年商80億円、純資産20億円。地域を代表する有力企業だった。
私が出会ったのは23年前、福岡シティ銀行の渉外担当だった頃である。
メイン銀行はC行。私の銀行は融資シェアの小さなサブ銀行で、正直、付け足しのような存在だった。
T社長は3代目。美術品が並ぶ社長室は、まるで美術館。経営者というより芸術家という印象だった。
しかし、頭脳明晰で、先を読む眼力は鋭かった。
今から19年前、初めて社長から私の携帯に電話があった。
「橋本君、相談があるので来てほしい。」
本社を訪問すると、社長、専務、常務の3人が待っていた。
「会社を売りたいので、相談に乗ってほしい。」
私は驚いた。
「メインのC行には話されましたか?」
「いや、橋本君に初めて話している。橋本君にお願いしたい。」
当時、M&Aはまだ一般的ではなく、企業買収には「ハゲタカ」という印象さえあった時代である。
なぜ、これほどの優良企業を売却するのか。
背景には、T社長の強い危機感があった。
子どもは3人いたが、全員東京在住で大手企業に勤務していた。後継者問題に加え、業績は4期連続減収。
中小スーパー業界の将来にも危機感を抱いていた。
私は、T社長が目先の利益ではなく、10年先の会社の姿を見ていたのだと思う。
「今なら売れる。しかし、5年後はどうなるか分からない。」
そんな判断があったのではないだろうか。
経営が行き詰まってからでは遅い。純資産20億円という財務基盤があるうちに、次の担い手へ託す。
これこそ、経営者の先見性ではないか。
残念ながら、当時の西日本シティ銀行には、この規模のM&Aを手掛ける体制がなく、
結局、店舗ごとの事業譲渡となった。
私は成約に貢献できなかったが、社長からは感謝していただき、今でもお付き合いが続いている。
事業承継の現場で感じるのは、決断を先送りする経営者が実に多いということだ。
しかし、企業価値も、売却の機会も、永遠に続くわけではない。
「会社を守るために、会社を売る。」
T社長は19年前、既にその本質を理解していたのではないか。
本社跡地には、今では病院が建っている。
その前を通るたび、あの日の社長室を思い出す。
先を読み、素早く決断する。私にとって、今でも忘れられない経営者である。